オシムの危険な言葉
2006/12/17 FIFAクラブワールドカップ ジャパン2006 決勝 インテルナシオナル vs バルセロナ [横浜国際総合競技場]
インテルナシオナルが勝った。大方の期待を裏切りバルセロナは優勝しなかった。この大会の目玉とされたロナウジーニョは優勝の立役者となれなかったことでTV局もバツが悪かっただろう。サッカーの試合とは得てして思い通りにいかないでTV局を困らせることがあるものだ。そのせいだろうか、またしても出てきたのはオシム語録である。スポーツ新聞ではバルセロナが負けてしまったことでオシムにスポットライトを移したようだった。
「一方はサッカーをスペクタクルな見せ物のようにとらえ、もうひとつは生活のための戦いと理解した。そして後者が勝ったのだ」
「美というものは長続きしない。今日のサッカーでハッキリしているのは1人でも走れない選手がいると負けるということだ。その1人が誰かは申し上げないが、みなさんはわかっているはずだ」
そういうコメントを発したらしい。確かにオシムの言ってることは正論だ。ジェフという選手層の薄いチームで優勝争いをしたという実績もある。だからオシムが言うことは全て正しいと言ってもいい。だけどこれは危険な兆候だと思う。
サッカーは走るもの。確かにそれは正しいだろう。では走っていればいいのか。走らなくてもボールを回せばいい。ドリブル突破できるならその時走ればいい。フェイントでかわせるのならその方が効率がいい。つまりはある一定のレベル以上の戦いになった時に走ることが勝敗を分けるようになるのだ。これがテクニックもないのに走るだけになったらこれはもはやサッカーではない。走れればサッカーで勝てるのなら陸上選手を集めればいい。そして1週間みっちりトレーニングを積むと勝てるということになる。それは絶対にあり得ない話だ。
今巷ではやたらと走れという言葉を聞く。少年サッカー、草サッカー、いたるところで走らないと駄目だという声が飛び交ってる。だけどそういう人達は気付いてないようだ。オシムが率いたユーゴスラビア代表にはストイコビッチがいたということを。そしてジェフにも阿部勇樹のようなテクニックを持った選手がいたことを。つまり一定のレベルがあった前提で相手チームより戦力が劣る時、オシムの走るという言葉は意味をなす。みんながみんな表面だけ受け止めている。
走ればいいというならテクニシャンはいらない。ファンタジスタもいらない。サッカーを観てる時一番盛り上がるのはどんな時だろう。それは走ってる姿だろうか。それは違うだろう。
日本では一つの教えがそのまま唯一の正解とされるからそのうちサッカーの練習にはボールが使われなくなるのではなかろうか。最近そういう危機感を感じるようになってしまった。
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