まずぼくらが変わらなければ
2006/11/21 U21日本vsU21韓国 国立競技場
こんなものなのだろうか。ひどく地味に見えたのは客が入ってないせいか。それともTVの演出のなさなのか。何かが足りない。それが何かは自分でも分からない。と思ってみたがすぐにそれはこの世代の知名度の無さなのだと気付いた。そのせいでTVも平山ばかり映している。後は水野が積極的に右サイドからクロスを上げてたので水野がよく映ってた。キャプテンマークを付けてた青山敏弘なんているのかいないのか分からないような扱いだった。中盤の底から前線に上がりミドルシュートを狙う場面などあってよくやってたと思うのだが。というか普段サンフレッチェの試合を観てたらこの選手の安定感はずば抜けたものがあるのだが残念ながら世間はサンフレッチェの選手には興味はないのだった。
やはりこういう国際試合をやると顕著になるのが個の力の不足だ。韓国は3対1の状況で突破を図りゴールを決めた。日本はゴール前でどれだけ勝負しただろう。1度家長が2対1の突破を図ろうとしたがクリアされてしまった。こういうチャレンジをしなきゃいけないのだろうが失敗すると解説者までもが「あそこにフリーの選手がいましたね」と言ってる。結局日本が個の力で劣ってるのは日本の風土がそうさせてるのかもしれない。個人技で失敗したら駄目で連携で失敗しても惜しかったと言われる、そんな風土があるのではなかろうか。
これは小学生の時からの教育にも関係があるだろう。小学校の授業では児童の答えで正解ならいんなで「いいです」と言い間違っていれば「違います」とみんなで声を合わせる。こんなことをやっていれば間違うということに対してとてつもないプレッシャーをかけられてるようなものだ。それによって児童はどんどん消極的になり年齢と共に授業中手を上げなくなる。先生はもっと積極的に手を上げて答えなさいと言うがそもそもそういう消極的な姿勢を作ったのは先生そのものだというのに気付いていない。
そういう姿勢というものが小さい内から埋め込まれるものだから中学校、高校と上がるにつれなおさら生徒は授業に対して受身になってしまう。先生から質問されても誰かが答えるのを待っているという沈滞ムードが漂うようになる。そういう場合結局優等生がその唯一無二の答えを的確に答えてその状況が収まるという構造になってる。答えは一つ、そして間違いは犯せないとなると黙っているのが一番無難なのである。日本のサッカーを観てるとそんな日本の教育の成果というのがよく現れている。
ゴール前でダイレクトでシュートすればいいものをトラップしてコースを切ってからシュートしてディフェンダーに阻まれる、ペナルティー・エリアで勝負しない、余計なパス回しが多い、こういった日本の欠点はもう日本の社会で血肉化してるものだからサッカー選手だけそれを止めろと言ったってできる訳がない。大袈裟に言えば変えるにはまずぼくらから変わらなくてはいけない。
このところ教育基本法の見直しが国会で審議されてるがこれも信用できない。なぜならぼくらはその内容をほとんど知らない。一体そしてそんなものに一々関心を持てるほど時間を持て余していない。結果限られた人によって教育方針が決まってしまう。とても良い状況だとは思えないのだが。
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